日本史の旅を一歩進めます。今回は仏教伝来から蘇我氏・物部氏の争いが出て来ます。
【日本史のできごと】
538年 仏教伝来=百済の聖(明)王、仏像と経論などを日本(倭)におくる。
(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』)
『日本書紀』では552年とする。
552年 仏像を礼拝するかどうかの論争(崇仏論争)がおこる。
554年 日本・百済連合軍が新羅と戦い、百済の聖明王が戦死。
百済から五経・易・暦・医博士などが派遣される。
562年 新羅、加耶諸国を滅ぼす。
585年 蘇我馬子、仏塔を建て仏舎利を納める。物部守屋が塔を倒し、
仏像・仏殿を焼き、残った仏像を捨てる。
587年 蘇我馬子・厩戸王(聖徳太子)ら、物部守屋を滅ぼす。
仏教が伝来しました。百済から仏像や経論などがおくられたことが仏教が公に伝来したという説になっていますが、前回の旅にもある通り、すでに少し前から私的には仏教が伝来していたことが伝えられています。仏教公伝については、できごとにもある通りいくつかの書物で年代にズレがみられます。このあたりはちょっとミステリーでしょうかね。
できごとにも出て来ましたが、仏教伝来の前後に日本(倭)が豪族たちの権力争いをしている、その間隙をぬって、朝鮮半島では新羅が南の加耶諸国を併合、百済を圧迫しながら、勢力を着々と伸ばしてきます。中国ではしばらくして隋が中国を統一していくことになります。
新しく伝わった仏教。それを崇拝すべしと訴えたのが、渡来人と結びつきの強かった蘇我氏(崇仏派)、一方、これまでの伝統を守り、在来の神などへの信仰を重視して反対したのが物部氏や中臣氏でした(排仏派)。結果、崇仏派VS排仏派の豪族の抗争となり、結果的に、蘇我氏らが物部氏を滅ぼして崇仏派が勝利するわけです。蘇我氏は氏寺となる法興寺(飛鳥寺)を建立するなどして、積極的に大陸の仏教文化を取り入れていきます。このあと、これまでの古墳に代わって、豪族たちは氏寺を建立することによって、その権威を示していきます。日本の仏教文化のはじまりですね。
さて、この後は蘇我氏が権勢を増していく中で、いよいよ厩戸王いわゆる聖徳太子が登場して飛鳥の朝廷の発展がみられるようになります。それはまた次の旅で見ていくこととしましょう。
仏教伝来と厩戸王(聖徳太子)とのかかわりについて、こんな書物がありますよ。
マンガ遊訳 日本を読もう わかる日本書紀4 仏教伝来と聖徳太子の夢 [ 村田 右富実 ] 価格:1,650円 |