今回は6世紀に入ります。大陸文化を受け入れた日本(倭)のヤマト政権に、まずは主導権を巡る争いが起こります。それが中国や朝鮮半島の国家形成の動きと微妙に絡んできます。
【日本史のできごと】
507年 大連(おおむらじ)大伴金村、越前(今の福井県)から
男大迹王(おおどおう)を迎え、継体天皇として擁立。
512年 大連大伴金村、加羅(任那)4県を百済に割譲。これがもとで
大伴金村は失脚したという。
513年 百済より五経博士が来日。
522年 百済系の渡来人司馬達等(しばたっと)が草堂をつくり、本尊を安置
して 礼拝する。(『扶桑略記』)
527年 加耶復興のため、ヤマト政権は近江臣毛野を派遣。
筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)が新羅と通じ、
近江臣毛野軍を破る。
528年 物部麁鹿火(もののべのあらかひ)、磐井を破る。
倭王武で有名な雄略天皇ののち、しばらくして豪族の大伴氏が台頭して、継体天皇を擁立したものの、朝鮮半島政策の失政をきっかけに大伴氏は失脚。北九州の豪族であった筑紫国造磐井の反乱があり、ヤマト政権は動揺しましたが、その鎮圧に功のあった物部氏が勢力をのばします。このあと、渡来人と関係が深かった蘇我氏がこの物部氏と仏教の受け入れを巡って対立(崇仏論争)していきます。その流れについては、次回の旅で見ていきましょう。
そんななかで、百済から五経博士が来日するわけですが、この五経博士の五経とは儒教の経典として尊重される『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五つの書物です。よく四書五経と呼ばれるうちの五経のほうですね。何だか難しい書物かなあですが、儒教って中国の孔子が始めた思想ですよね。中国をはじめとする東アジアの文化に大きく影響を与えた思想です。礼儀を重んじる考え方で、今日にもつながる道徳の源ですね。五経にもその根本原理が書かれています。う~んやっぱ難しい。
そして、何気にもう仏教が日本に伝来してます。公式に伝わったのはもう少し後ですが、個人的に仏像を拝んでいた人がいたんですね。後世の鉄砲伝来でもそうですが、メインは種子島になりますが、それ以前に日本人と東アジア・東南アジア地域の商人との交易の中で、もうすでに鉄砲が伝わってたなんて説もあるわけですから、主役の歴史だけでなく、わき役の歴史にも目を向けてみると、また一つ歴史の見方が変わりますね。メインストリートだけでなく、歴史のサイドストーリー、わき道にもちょっと立ち寄ってみるのもなかなか面白いですよ。