日本史の旅(7)

 秋の夜長。静かな夜になりました。ここで、日本史の旅をまた一歩進めてみましょう。古墳時代も前回から進んで5世紀、倭の五王が登場します。
【日本史のできごと】
  413年 日本(倭)、東晋に朝貢。(『晋書』)
 421年 倭王讃、中国の南朝(宋)に朝貢。(『宋書』倭国伝)
 438年 倭王珍、宋に朝貢、宋の文帝、倭王珍を安東将軍倭国王とする。
(『宋書』倭国伝)
 443年 倭王済、宋に朝貢、安東将軍倭国王の称号を得る。
(『宋書』倭国伝)
 451年 倭王済、宋より使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東
    将軍倭国王の称号を授けられる。(『宋書』倭国伝)
 462年 倭王興、宋より安東将軍倭国王の称号を授けられる。
    (『宋書』倭国伝)
 478年 倭王武、宋に遣使、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事
    安東大将軍倭王の称号を授けられる。(『宋書』倭国伝)
 479年 南朝(斉)、倭王武を鎮東大将軍とする。(『南斉書』)
 502年 南朝(梁)の武帝、倭王武に征東将軍の称号を与える。(『梁書』)

 当時の日本(倭)は朝鮮半島南部での鉄資源を確保するために、伽耶(加羅)諸国と密接な関係を持ち、4世紀後半から、南下策を進める高句麗と何度も争っていたことは、前回の旅でふれました。
 5世紀になると、朝鮮半島南部の有利な立場を認めてもらおうと、日本(倭)の当時の大王(倭の五王)が約1世紀近くにわたって中国の南朝(宋)に朝貢したというお話です。倭の五王とは讃・珍・済・興・武と中国の史書に記されています。
 倭の五王のうち、済とその子の興と武については『古事記』『日本書紀』などの『記紀』にみられる允恭→安康→雄略でほぼ異論がないとのことです。讃と珍に関しては諸説があり、この中には、日本最大の古墳である大仙陵古墳(大阪府堺市)に眠るとされる仁徳天皇も入ってきます。
 また、武については雄略天皇のことですが、この天皇の銘が入った埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘や熊本県江田船山古墳出土の鉄刀銘でも有名ですね。それぞれには「ワカタクルノオオキミ」(実際には漢字で書かれています。漢字入力に限界があったのでご勘弁を。)という銘が刻まれていて、それが雄略天皇を指すとのことです。
 漢字の使用がこのころから日本(倭)でも始まったわけですが、日本(倭)に大陸から多くの渡来人が渡ってきて、大陸の文化や技術を伝え、当時のヤマト政権の重要な役職にも就きながら、日本の政治・文化の発展に尽くしたわけです。儒教や仏教なども朝鮮半島から伝来してきます。
 ちなみに、倭の五王は中国の南朝のみと交流があったようですが、のちの飛鳥文化の仏像に見られるように、当時の北朝(北魏など)の仏教文化の影響も受けています。いずれにしても、大陸との交流の中で、その文化の影響を色濃く受けながら、日本(倭)は国家としての形を整えていくのですね。
 次回は6世紀の日本を旅する予定です。ヤマト政権もいろいろ揺れ動いていきます。
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