日本史の旅(6)

 日本史の旅を、時間をまた一歩進めてみましょう。3世紀中ごろから後半になり、日本(倭)では、弥生時代のものよりもさらに大きな墳丘、前方後円墳などの古墳が西日本を中心に出現。また、近畿地方でも規模の大きな古墳がつくられてきます。そんななか、大和地方(奈良県)を中心とする政権、いわゆるヤマト政権が形成され、やがて、日本(倭)の広い地域がヤマト政権に組み込まれていきます。
 それと並行する形で、日本(倭)と朝鮮半島、中国との交流が始まっていきます。前回の旅でその一端を見ましたが、今回はそれに続く、朝鮮半島とのかかわりについて見聞してみましょう。
【日本史のできごと】
  391年 日本(倭)の軍勢が渡海して百済・新羅を攻撃。
 400年 日本(倭)の軍勢、さらに高句麗と戦うも撃退される。
 401年 日本(倭)の軍勢、もと帯方郡があった朝鮮半島北部に出兵し、
     高句麗に撃退される。
 (ともに『高句麗好太王碑文』による)

 
 高句麗という、今の中国東北部から朝鮮半島北部を当時支配していた国の王であった、好太王(広開土王)の業績を記念する碑に刻まれた文から判明した事柄ですが、現在はその解釈について議論がされているそうです。
 日本(倭)軍は高句麗の騎馬軍団とも戦ったらしく、そのことから、それまで乗馬の風習がなかった日本(倭)人たちも、騎馬技術を学んでいたのではという話があり、さらには、日本はこのころ、古墳時代中期に大陸の騎馬民族によって征服され、その征服王朝が以降政権を握ったという説も以前に論議されていたこともあります。そういえば、古墳から出土する埴輪にも馬の埴輪とかも出土していますね。5世紀の古墳には副葬品に馬具などが見られるとのことです。
 まあ、なかなか荒唐無稽な話かもです。しかし、4世紀の古墳に三角縁神獣鏡のような銅鏡や宝玉などの副葬品が多く見られ、葬られた首長に司祭者的性格をうかがわせるのに対して、5世紀になると副葬品に武具や鉄製武器、馬具などの軍事的色彩の強いものが現れるのを考えると、このころになると首長は軍事力の強い武人が多かったのではと考えられます。あながち荒唐無稽とも言えない話かもしれませんね。
 さて、5世紀、古墳時代中期になると、近畿地方に巨大な古墳群が出現します。そして、当時の中国との外交関係も見られるようになります。その旅はまた次回に譲るとしましょう。
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