日本史の旅(5)

 前回は弥生時代まで下ってきました。ちなみに旧石器時代~縄文時代は旅することはできていませんが、これはまたの機会に旅してみようかと思います。3世紀後半からしばらく日本(倭)の記述はしばらく消えていましたが、遺物などから4世紀後半の記述が散見されますので、当時の東アジアの情勢と一緒に旅してみます。
【日本史のできごと】
369年 倭、百済と結び、新羅と交戦。伽耶諸国を支配。(『日本書紀』)
372年 百済王の世子(太子)が倭王に七支刀(しちしとう)を贈る。
(石上神宮七支刀銘文)

 この辺りの記述は、『日本書紀』などの記紀や当時の遺物の銘などで確認する状況なので、多少のミステリー感はありますが、それが古代史の醍醐味ということで、どうかお許しを。上記の事情から察するに、当時の日本(倭)の政権(ヤマト政権?)は一地域政権ではなく、東アジアとの外交関係を着実に進めるだけの一国家に成長していたことが垣間見えます。
 そこで、先ほど述べた通り、当時の東アジア(大陸の)情勢を簡単に見てみましょう。
【当時の東アジア情勢】
 中国は魏・呉・蜀の三国時代の後、司馬懿の孫司馬炎が魏の皇帝から禅譲を受け、3世紀後半に晋を建国したが、4世紀初めに北方の遊牧民族(匈奴ら五胡)の侵入を受け南に逃れ東晋に。その後、北は北魏などの北方民族勢力が支配。南は東晋にあとを受けた宋などの漢民族勢力が支配する南北朝時代に移行した。
 司馬懿といえば、三国志では諸葛孔明との五丈原の戦いで有名な魏の軍師です。軍師の血筋だけに政略も長けていたのでしょう。魏の政権下で着実に力を伸ばして禅譲、いわゆる平和的に政権を譲り受けたのですね。
 この南北朝時代の文化、とくに仏像彫刻などの仏教文化の影響が、のちの日本(飛鳥時代)の文化に深くかかわってきます。歴史はつながりがポイント。一時代的ではなく、前後関係でストーリー的にとらえると分かりやすくなりますよ。
 ちょっと話を広げてみると、4世紀初めに北方の遊牧民族が中国に侵入となりましたが、この遊牧民族(匈奴)は西方にも移動し、果てはヨーロッパにも移動(遊牧だけに移動距離が半端ない)し、ゲルマン人大移動を促したという事実もあります。ゲルマン人大移動の結果、ヨーロッパの国家再編、さらには、中世への扉を開いたという意味では、ヨーロッパの歴史に東アジアの民族移動が一役買っていたことは、まさに歴史の大きな流れ、ストーリーを感じます。ダイナミックですね。
 さて、再び東アジアに戻ります。中国東北部は高句麗が朝鮮半島北部に進出。313年に中国(前漢)以来の楽浪郡を滅ぼした。朝鮮半島南部は西に馬韓、東に辰韓、最南部に弁韓といった小国連合に分立。4世紀の朝鮮半島南部は、馬韓から百済、辰韓から新羅がおこった。南の弁韓はまだ小国連合的状態が続く。この弁韓の地はやがて伽耶(加羅)諸国というようになる。『日本書紀』では伽耶諸国のことを任那(みまな)と呼んでいる。
 北の高句麗は確か紀元前後にできた国です。この時代の歴史がベースの韓流ドラマも確かあったはず。中国は南北朝時代という分裂時代を経て、やがて北朝からおこった隋が中国を統一します。朝鮮半島も高句麗・百済・新羅の三つ巴を中心に統一国家に向けた胎動を始めています。そんな中で日本も東アジアの政治・文化の影響を多分に受けながら、やがて律令国家体制へと成長していきます。
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